北欧借りぐらし

北欧について気になったことを調べてまとめます。

学費の問題で進学をあきらめた若い日本の友人について

これまで、あちこちの国をふらふらしてきて、めずらしく、思ったことを文章にしてみたいと思います。別に面白いお話でも、告知でもないです…

 

北欧諸国、ないしは欧州の友人たちに、日本の教育制度の話をすると、「お金がない人は、良い学校に入るスコアがあっても入れないの?」と聞かれることが結構あります。言葉につまります。

デンマークという国にいて、多くの調査をしました。日本人の感覚では「それはやりすぎじゃない?」とでも言われかねないくらいの「人権の尊重」の実践を見ました。その政策とその信念を見てきて、素直に、日本人の感覚に疑いを持ち始めてしまいました。

 

先日、日本に帰った時に仲の近しい友人が学費の問題で進学をあきらめていました。
「でも私よりも苦しい立場の人がたくさんいるからね」とつぶやきました。「もしかしたら、それでもお金貯めて勉強したかったらまた進学するかもしれないし。」とも言いました。
奨学金もらえるほど頭もよくなかったし。」と。

 

私もほぼ、同様の立場にいるので他人ごとではなく苦しく、どれだけの覚悟の諦めだったかを想像することができます。私も頻繁に経済的な余裕がないせいで目標を諦めかけそうになることがあります。ゆえに悲しくなりました。
「まだ借りられる奨学金があるよ」という言葉は、言えませんでした。それは、日本では借金を勧めることとほぼ同義になってきているからです。

 

 

教育へのアクセスについて、親や親族からの支援の期待が全くできない人がいます。

また、親へのひどい罪悪感を持ちながら進学する人、一方で罪悪感なく進学できる人がいます。
それ以前に、自分の進路よりも愛する周りのひとのために、自分の将来を犠牲にしてきたという意識もなく、思いもせず、生きてきた人がいます。
その差は、とても大きいものです。

 

 

医師の友人は目の前に人が傷ついていたら、たとえオーバーワークになっていても反射的に助けるといいます。きっと医師じゃなくてもそうです。
眼前に、親しい人が苦しんでいたら、助けたいと思います。それを助けずに見捨てて、自分の道を進む人がどれだけいばらの道なのか。
それを選んだのも選ばなかったのも、自己責任なのでしょうか。
そして、その苦しさを言語化できている人が、どれくらいいるのでしょうか。

 

 

「あの人だってあなたと同じように苦しい状況だったのに、頑張って生きてるよ。だからあなたも頑張って」という言葉は、これまでの人生、結構な回数言われてきましたが、私が決して他人に使いたくないな、という発言の一つです。
「それはそれを選択したあなたの責任でしょう?」もまたしかり。

 

 

ちょっとだけ、進路を諦めた友人からの報告に対する私の考えを、どうともいかない感情を、言葉に乗せてみました。